ル・ラルの主催用法

 

転換する日本語文法 (研究叢書)

転換する日本語文法 (研究叢書)

 

 読んでいる。ル・ラルについてまとめて読むため。

可能についてだけでなく主催については本当にすばらしい発見・分析。

だが、主催を「主体の関与のある行為が主体の行為としてでなく実現する」と押さえ込もうとするのはどうなのか。主体が明確な場合はよい。しかし主体が明らかでない場合に「主体の関与がある」というのはおかしい。この2つを1つの用法にまとめてよいのか。主催には、介在あり行為の場合と、主催者さえも不特定の事態実現の場合が混ざっているのであって、前者こそが主催の名で呼ばれるべきで、後者は、非人称催行と呼ぶ論者がいたように、主体が特定できない事態発生を述べるためのものではないか。

ただ、主催にタマフがつかないのに対して、似たような介在あり行為である使役にタマフがつく説明が納得できない。使役者は使役という行為の主体であるからタマフがつくとして、主催者は行為の主体ではないのだろうか。受身の主語にはタマフがつくが、受身の主語は受身という行為の主体なのだろうか。

結局は受身の議論がないために、ル・ラル全体の議論につながり損ねている気がする。受身を、「主体の関与のない行為が主体の行為としてでなく実現する」と押さえ込んだ場合、受身の主語が被影響者であることは出てくるのだろうか。また、この規定であれば、無生物主語の受身こそ典型に近いものになるのではないか。あるいは、動作対象や被影響者とも関係のない、例えば事態が起きた場所や時や、あるいは道具などの付加詞相当の句に含まれる名詞こそが受身の主語になるのではないか。現代語風に言えば「今日が次郎を殴られた」「このハンマーが次郎を殴られた」みたいな。

著者のル・ラルの規定は、非他動詞化説あるいは自動詞化説の系譜に収まると思うが、受身に関して同じ弱点を抱えているように思う。ぜひ、上代・中古の受身を調査して、可能・主催同様の新発見をしてほしい。受身の拡張の跡が明らかになれば、もっとすばらしい光景が見えるような気がする。

私自身がこの本を読んでいる途中なので、ここに書いたのはメモ以上のものではない。