関西言語学会シンポジウム

 動画がアップされている。なぜくろしおがやっているのかはよく分からない。再生回数もあんまりである。
関西言語学会シンポジウム「言語理論と科学哲学」(2014/6/14)_1/4 - YouTube
関西言語学会シンポジウム「言語理論と科学哲学」(2014/6/14)_2/4 - YouTube
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 藤田耕司独演会の雰囲気もあるが、戸田山和久による見方が非常に面白かった。言語学が自然科学を目指すと言っても、どのような自然科学を目指すのかというのを明らかにしない限りは、叫び声だけである。偉そうにしているだけである。言語学の他の術語と同じで、定義もよく分からないまま科学という言葉を使っているだけである。例えば、物理学と生物学では全く違うものだ。心理学は近年生物学化しようとしているし、地学や宇宙科学は歴史性を持つ点で生物学に近い。戸田山もおちょくっていたが、言語学が自然科学と言う割にはどれだけ経験科学なのかが胡散臭い。人文科学ではなく自然科学だというのであれば、心理学みたいにきちんと実験しようよ。あるいは思弁ではなく客観的だと言うのなら、歴史科学や人類学みたいにフィールドや大規模なデータベースから必要なものを拾ってこようよ。それをせずにいきなり物理学をモデルにしようとか言い出すからおかしい。足元ができていないのに屋上屋を重ねている。まして、言語の進化論的説明さえできていないのに、言語が完璧だとか言語は伝達のためではないとか、物理的数理的制約を説明しようとか、訳が分からない。生物学でさえ進化と遺伝が総合されたのは古い話ではないし、それと発生が総合されたのは近年だ。ダーシー・トムソン的な流れとの統合は、非線形科学の領域でモデル化されていたのが、進化・発生と繋がったのが最近の話だ。それを言語学ごときが。
 でもそれでも、言語学がそういうことを言えるのは、抽象から具体までの多様なレベルを手持ちの少ない部品でやりくりしようとしていると戸田山が言っているように、言語学自体の特異性で、とても面白い。とても変だ。全体討議の最後にid:dlitさんが質問しているように、言語学を事例研究とすれば、科学哲学は更に面白いものを得ることができるだろう。言語学も、科学になりたいのなら、科学哲学者の話を聞いて参考にする方がよい。全体討議ではこういう点がもっと問われるべきだった。
 戸田山が生物学の2つの流れで適応主義と構造主義を挙げているが、キュヴィエvsジョフロワ・サンティレール、ダーウィンvsオーウェンの次の絵が誰なのか非常に気になる。
 全体討議の質問のうち、藤田耕司独演会の部分を除けば、dlitさんの質問以外の質問は大した意味がない。院生の人生相談は指導教官としろとか、個体発生と系統発生をごっちゃにするなんてどこのヘッケルだとか、トマセロを読めよ、の一言でカタがつくようなものもある。西村義樹先生が人がいいものだから、いちいち丁寧に答えていたが、用法基盤モデルの理解もしていないようなのは論外である。論争相手を理解せずに決めつけてかかるのはおかしい。人文系の作法にさえ基づいていない。西村先生は不当な非難をしていないし、藤田も自制的であった。というか、西村先生を呼ぶなよ、かわいそうに。進化とかの専門家ではないのに。日本の認知言語学の人で堅い問題に取り組んでいる人がどれくらいいるのか良く知らないが、なぜ西村先生を呼ぶ。専門外と言うのなら戸田山もそうだが、戸田山にとっては新しい研究対象を見つけることに繋がるわけで、前もってお勉強する甲斐もあるだろう。西村先生が進化にコミットしているように見えるかあ。認知言語学と生物学がどうのとか免疫系が似ているとか言っている人がいるでしょ。そいつを呼べよ。あと、背景のプロジェクターを藤田がいじるのが煩い。ピンカーもジャッケンドフも出てこなかったが、生物言語学ではそういうものなのだろうか。

アイヌ語の方言の系統

Evolution of the Ainu Language in Space and Time - murawaki の雑記 - rekkenグループ
http://d.hatena.ne.jp/arch74324/20140620/1403266433
 日本語族内の系統の分岐について推測した人http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20110909アイヌ語でもやったらしい。また長谷川先生が第二著者だ。前回はデータを作ったので偉いと思ったが、今回データを作ったのは服部四郎で、偉さは半減である。前回も日本の本土方言の系統推定が非常に怪しかったが、それは強度の接触のせいであると解釈された。つまり、日本語族の分岐は、何らかの産業の拡散に伴って室町以降に生じたか、そのモデルでは分岐がはっきりしないか、であった。今回のアイヌ語接触のせいっぽい。
 第一著者はとにかく道具を使いたいようだ。そしてそれを考古学的なものとつなげたいようだ。方言レベルで使えるかどうかによって道具を修正するという意図はあまり感じられない。その道具を使って韓国語内の方言や中国語の方言など、比較的データがあって、系統分岐になじみにくい対象を分析していけばいいのではないだろうか。多分日本語族の時と同じようにデータを作るところからしなければならないだろう。その作業が尊いのは当然だ。そのうち、あ、やっぱりよくなかった、ってことが分かるかもしれないし、中国語で新たな発見とかあるかもしれない。