新年に入ってから、毎週のように週末は何がしかの原稿を書いている。この状況は良くない。絵をかけない。

ちなみに喘息も良くなっていない。そろそろ病院を変えることも視野に入れねば。

今年度中にすべきことは多い。

電球を買い換える。本棚を買う。パソコンを新しくする。

The Cranberries

 先日、クランベリーズの元ボーカルのドロレスが去年の今頃に死んでいたということを知った。すごくショック。
 クランベリーズの歌を始めて知ったのは、実はフェイ・ウォンのカバーした曲から。当時は今みたいに情報がないから、ライナーノーツからたどっていった。クランベリーズのCDはあんまり売っていなくて、今から考えるとなぜだろうと思う。
 そして、この情報過多の世の中であっても、ドロレスの死を一年も知らないという。ちなみに、知り合いの20歳年下のアイルランド人に聞いてみると、ぜんぜん知らなかった。世代が違うか。

喘息

 年末から引きずっていた咳は喘息と決定。毎年毎年重い病気を引き受けるよなあ。
 咳がひどいときは、息ができないせいか、頭を激しく振るせいか、意識がおかしくなるときがある。咳が終わった後、自分が何者なのか分からなくなったときは、後から結構怖かった。

年末年始は咳がひどく起きていてもしんどく、何もしなかった。月に1枚仕上げるのでさえできないのか。

吉田永弘「尊敬用法の「る・らる」の位置づけ」

読了。
可能の歴史と主催・尊敬の歴史を踏まえて、非意志的実現説を唱える。出来文説との異同も明確で、利点も多い。
しかし、やはり受身の説明が腑に落ちない。主語者の行為としてではなく事態が実現するのが受身と主催であり、主語者の行為への関与がないのが受身とされている。だが、これでどうして受身が主語者への行為を表わすようになるのかが分からない。非情の受身であろうと被影響の受身であろうと持ち主の受身であろうと同じである。非意志的実現説は動作主非焦点化説に近い。この立場では受身は直接受身が本来ということになる。この場合、被影響はなくてよい。動作主を非焦点化した結果、非動作主が焦点になり、結果として、主語者への行為を表わすようになる。ただしこの場合は、自発・可能を、動作主の意志によらない行為であるとする線が守るのが微妙な気がする。
また、受身の主語は尊敬のトリガーになる。対して主催の主語は尊敬のトリガーにならない。使役の主語が尊敬のトリガーになるのは主語者が行為主体であるためであり主催はそうではない、と説明するのは、受身を前にして説明になっていない。受身の主語者も行為主体なのだろうか。
ぜひ受身の歴史も論文にしてほしい。

出来文説も、受身の被影響については説明できるが、主語について説明できているのかは怪しい点がある。自発や可能の主語が場であるとして、それの標識のされ方と受身の標識のされ方とは全く異なる。標識が主語であるかどうかとは直接関係しないという説明も可能だが、それはそれで、きちんとした主語論と標識論が必要である。現代語でも同じである。自発・可能の第一主語は場であり二になりうる。尊敬の主語も、二ではないが場所のように扱われうる。しかし受身はそうではない。丁寧な格助詞論があれば話は別だが、今のところそうではない。